Sonata's diary

塗り絵とか写真とか、趣味の記録をマイペースで付けてます

私について

タイトル通り、私について、です。

工藤静香さんの大昔の曲にこんなタイトルありましたねぇー。なんてほっこりするページではないです。

興味のない方はすっ飛ばしちゃってくださいネ(∩´∀`)∩

むしろ、自分が何度も読み返し忘れないよう、肝に銘じるためのページでもありますので、文章は長くなります。恐ろしく。

 

私は、人に意見を合わせて生きてきました。

多少の事は、私が我慢すれば丸く収まる。

そして、和やかに事がすすむ。

相手も嫌な思いをしないで済む。

そう思ってきました。

けれど、それはどうやら違ったようです。

私は、意見を合わせることによって、嫌われないように生きてきました。

相手の顔色を常に窺い、機嫌を取り、相手にとって、いいやつと思われるように生きてきました。

ただただ、嫌われないように、懸命に。

嫌われることは怖い。

はじかれるのは怖い。

嫌われたくない。

この思いは一般的に誰にでもあると思いますが、私の場合、少し異常でした。

こうだったのだとわかってしまうと、改めて元夫に対しての自分の余裕のなさもよくわかります。怒られる→嫌われた?→機嫌を取ろうと必死になる→うまくできない→怒ってる?→どうしたらいい?怖い、嫌われたくない→必死になる、意見を合わせる→怖い嫌われたくない→意見を合わせる、合わせることで無理している自分が限界になる→でも嫌われたくないので意見を合わせる→無限エンドレス

意見を合わせるという書き方だと、別に悪くないじゃん?と思われる方もいるかもしれません。

ので、例を上げると

白い紙にお絵かきしましょう、と、Aと私が同時にお絵かきを始めるとします。

二人とも最初は何を描こうかなーと迷っています。

A「何書くかきまった?」

私「んー・・・どうしよ。なすびかなぁー」

A「私はタンポポ描く♪」

私「タンポポかぁーいいねー。私もそうしよー」

と、いう感じです。

飲食に関しても同じです。Aが食べるものにならって、私の食べるものも決まります。

買うものも、好き嫌いも、その場に一緒にいれば大体同じになります。

私は過去まで、悪意があってこれをしていたわけではありませんでした。もう空気のようにこの行動が染みついていまして、当たり前の行動となっていました。当たり前なので、悪気はないのでした。しかし、これが積み重なると相手にとって、とても不快な行動であり、そして、私にとっても、私自身を失っているという状況であるのでした。

 

私は、職場での私について考えてみました。

職場での私は、物事を怖いくらいにはっきり言います。

ダメ出しもするし、意見も言います。

職場の友人には、「はっきりいうよねー」と言われる始末です。

ああでもない、こうでもない、と言い争う覚悟だってあります。

こうじゃないんですか?と投げかけ、そこはこうだよ、と言われることも、考えれば沢山あります。それが職場では怖いという感覚にならない。

だけど、私生活では欠片もそれがないのです。

なぜ?

何が違うのか。

考えました。

答えは割と解りやすいものでした。

私は、仕事には多少の自信を持っています。

それなりに目標をもって、努力をして毎日過ごしています。

失敗はしても当然、その失敗を覚えて、同じことをやらなければいい。

失敗したのはどうしてなのか?どうすればよかったのか。

そこを踏まえて次に進めばいい。

そうして積み重ねた仕事は、私に自信を与えていました。

その結果、意見も言えて、行動もできていました。

そして、意見交換しても、相手は私を嫌いになっていない事実を改めて知りました。

 

私は、仕事が好きだと思って生きてきました。

仕事は楽しい。仕事はちゃんと成果が表れるから。

そう思っていました。

でも、深く追及していくと、別の思いもあることに気が付きました。

仕事の場には、居場所がある。

ここは私を必要としてくれる。

やればやるほど、必要としてくれる。

 

少し、内容がずれてきたように感じますので軌道修正。

つまるところ、私は周りが円滑に行くために自分の意思を我慢する、ということを、美化してよいことだと思って生きてきたんです。

これだけだと、周囲を丸く収める良い人、のように見えますが。

正しくはこうです。

自分が嫌われないために、ハブられないために、他人に合わせて生きていこう。

相手が自分を好いてくれているなら尚更、嫌われないように生きていこう。

 それが裏切りであるということにも気が付かずいました。

なんて弱い。

なんて無様。

なんて卑怯。

これでは意見を常に合わせられた相手は、私と付き合いをしてないじゃないか。

意見を常に合わせられた相手は、姿かたちの違う自分の意見と居るだけじゃないか。

私は私を相手にさらけ出すこともなく、相手に私を知ってもらうチャンスすら与えていない。そして、意見を合わせ続けているため、合わせるのに我慢の限界に達し、私の事を何もわかってない!と勝手に憤る。

相手は何一つ悪くない。だって私が合わせてきたと知る由もないんだから。

大体、そんなこと相手は頼んでいないし、期待してもいないのだから。

何度も言おう。肝に銘じろ。

勝手に相手に合わせ、勝手に我慢をし、勝手に限界に達し、勝手に憤る。

さ い て い である。

最も低いと書いて最低だ。これはあんたの一番嫌いな言葉のはず。

怖い気持ちと戦うのは、これまで都合よく積み重ねてきた年数を重ねて吐き気がするほどの戦慄を覚えるけれど、私生活においての自分について、意思表示の努力を開始した。

 

ブログの一番最初のページにこんなことを記している。

「超気分屋だから、日によって語調が変わるどころか、趣味嗜好が変わってることもある・・・そんなバラバラな自分がいずれこういう人間なんだってわかることが出来ればいい。

うん、そのためのブログかもしれない。」

 

文章の冒頭は、他人に意見を合わせるから、趣味嗜好を合わせるからそうなる。そして、書くことによって前回と今回との意見が違っていたときの言い訳となるようにしていたのだ。いわゆる逃げ道だ。

そして文章の後半にちゃんと書いていた、自分。

いずれこういう人間なんだってわかることが出来ればいい、と。自分がどういう人間か、自分でもわからなくなってきていた、それではダメだと、自分がないままではだめだと、この時すでに奥底で不安に思っていたんだと思われる。

今、繋がっている方々には、改めてよろしくお願いいたしますという気持ちで、出会えていることに感謝して、自分を見せていこう。

その先に何があろうと、受け止めていけばいい。

いずれ、この震えが止まるように。

うん、そのためのブログになればいい。

 

長文を読んでいただき、ありがとうございました。

 

 2014.01.23.22.32 sonata